今年、39回目を迎える「台東薪能」では、『隅田川』が演じられるそうだ。おととい、その観劇事前レクチャーが開かれたんで行ってみた。
講演は、観世流シテ方能楽師・坂 真太郎氏だ。『隅田川』の内容についてはある程度の知識はあったけど、坂さんの巧みな話に、我っちの知識はウンと深まったと思うよ。で、これまでも2~3回ほどは歩いたことのある『隅田川』関連の場所を、またまたチャリツアーで回ってみたんだ。それはきのう20日のこと。以下、動いたルートの順を追って謡曲『隅田川』の紹介をやってみようかと思い立ったんです。
隅田公園
対岸のスカイツリーを眺めながら、隅田公園をゆっくりと北(上流)方向に進む。
のっけから指出しでゴメン
右は言問橋をくぐるとこ
以前に撮ってた言問橋 地元の歳よりは「こっといばし」と言う
橋もツリーもなかった大昔、ちと上流の橋場ってとこで、在原業平はこう詠んだ。
名にしおば いざこと問わむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと
謡曲『隅田川』
謡曲『隅田川』はこの業平の歌を下敷きにして、観世十郎元雅によって創られ、いまや能楽のなかでも演目の4番目に当たる狂女ものの一級品として定着している。ちなみに能楽の演目分類は「神・男・女・狂・鬼 =じん・なん・にょ・きょう・き」となってる。
そこで、この謡曲『隅田川』とはどんな話なのかを書き出してみよう。
都の重職である武将の子で、梅若丸という少年が居た。10歳かそこいらのとき、当時頻繁だった人買いにかどわかされた梅若丸は、人買いに引き連れられて奥州に向かっての長旅に下った。武蔵の国までたどり着き、いまの台東区橋場から渡し船で隅田川を渡る。この渡し船は国境の渡しで、対岸はもう下総、奥州街道の入り口なのだ。
ここにきて、梅若丸は旅の疲れで死んじゃう。人買いに置き去りにされた遺骸を、村の者たちはあつく弔った。死を前にした梅若丸が詠んだのは
尋ねきて 問わば答へよ都鳥 隅田川原の露と消えぬと
一方、姿を消した我が子梅若丸を探し探して都を下った母親は、橋場の渡しにたどり着く。向こう岸では墓標の周りに集まった村人たちが、供養の声を上げている。船の渡し守と船客との会話によると、あれは、あそこで死んだ少年の一周忌を村人が奉じているんだ、と。これを聞いた母親は、それが我が子・梅若丸だと悟る。
墓標に駆け寄った母親は狂ったように泣きもがき、現れた梅若丸の亡霊を抱きしめようとするけど、実体のない梅若丸をとらえることはできない。
他の離別した母子ものの演題では、めでたく出会えてハッピーエンドなんだけど、この『隅田川』だけが悲しいまんまの結末なんだそうな。
隅田公園で言問橋をくぐると、公園の北端になる。そこに、謡曲『隅田川』を顕彰するような歌碑があった。
羽子板や 子はまほろしの すみた川 秋桜子
さて母親は渡し船で橋場に戻ったのだろうか、そこで髪をおろし尼になった。静かに息子の供養をつづけたかっただろうに、きもちは乱れていくばかり。とうとう狂い死にをしちゃったらしい。橋場の民家の隣にはちっこい塚があり、母親を祀ってある。
創作の謡曲とはいえ『隅田川』は、業平の『伊勢物語』
を下敷きにして、台東区民や、特に橋場の住民には、
真実の歴史秘話のように定着してるのだろう。
そう言えば「台東薪能」は今年で39回目の公演だという。毎回、観客のアンケートをとってるらしいけど、いつもこの『隅田川』上演の希望が多いんだって。住んでる台東区の東っ側に流れる隅田川、単に「大川」と呼んで親しみを持った川。そこを舞台にした母子の情愛物語を、区民はきっと大事に思ってるんだろうな。これまでは1~2回? くらいしか上演されてないそうだ。だから今年はきっと大入りなんだろうな。
つづきます