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Channel: 海比古の酔いがたり
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取材の大切さ、とは

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きのうの毎日新聞、《荒宏の毎日コレ検索》に惹きこまれた。
『言論の力と「探訪」記事の実感』 荒俣宏:2016/6/18(土)だ。
主旨としては、新聞はじめ報道メディアでの記事は、概念的な書き方を避けて客観的に真実を探り当てて書かなくちゃいけない、てなこと。概念的な記事の例として、熊本・田原坂での薩摩士族軍(西郷隆盛派)と政府軍(官軍)との戦いを「郵便報知」紙の記者だった犬養 毅は、こう書いたらしい。
‥‥政府軍の抜刀隊に志願した元会津武士が「戊辰の復讐ぼしんのふくしゅう」と叫んで反乱軍に斬り込んだ‥‥
いかにも、戊辰戦争で薩長軍に負けちまった会津藩士が、その怨念を「ここぞ」とばかりぶつけたんだな、てな様子が読者には伝わっただろう。ところが「東京日日新聞」の社長で記者でもあった福地源一郎は、田原坂の激戦地を「探訪」して速報した。周囲の民家が避難してモヌケの空の様子や、兵士相手に荒稼ぎしてる飯やの存在。そして抜刀隊に志願した元会津藩士は「戊申の復讐」なぞとは叫ばず「ソレ進め、ソレ乗っ取れ」と、隊の連携ぶりを伝えた。
福地源一郎は「探訪」と言う言葉を好んで使って、いわゆる現地取材の大切さを実践してたそうだ。
 
なのに荒俣さん、この記事中で “‥‥征韓論に敗れ下野した西郷隆盛‥‥” と書いてる。
我っちネ、この「征韓論に敗れて‥‥」という表現をこれまでいくつも見てきた。いろんなお人が、そう表現してた。歴史に疎い我っちはどんな意味なのか判らずのまんまスル―してたんだけど、今回ばかりは調べたくなったんだ。といっても明治政府スタート間もないころに「探訪」出来るわけもない。トーゼン、ネットで検索だ。
で、判ったこと
 
●西郷以外の人間が、朝鮮を撃つべし、と「征韓論」を展開し、西郷はそれに押し切られた、と我っちは思ってた。
●征韓論の「」とは征服のことじゃなくって、ほんとは「ただすいいかたちにする」てな意味らしい。西郷も「征韓論」者だったそうで、武力での朝鮮征伐でなく、平和交渉での解決を望んでた。交渉の大使に自分を任命して欲しいと、岩倉具視首相や、同僚の板垣退助に働きかけたらしい。
●だけど海外視察で、国力の強化が第一と考えてた岩倉の「朝鮮なんぞほっとけ」という反対に遭い
●同僚の板垣は朝鮮への派兵を主張して袂を分かった。
てなことで西郷は政府方針に嫌気がさし、鹿児島に引っ込んじゃった。
 
ここで我っちが言いたいのは「征韓論」じゃなくて「征韓論」敗れ、がほんとだろう、と。だって西郷も「征韓論」をぶってたわけだし「征韓論」の主張のぶつかり合いに負けた、ってことなんだから。
荒俣さんも、これまで誰彼となく、あちこちで使われてきた「征韓論敗れ」てなフレーズをそのまんま流用したんだね。これ、概念的な表現だと思うんだけど?
ま、我っちだってこれまで、いくつかの間違いをやってるんで大きなことは言えないけど‥‥
 
ちと消化不良な記事になっちまった。
荒俣さんは、記事の最後をこう締めくくってるんで、原文のまんま転載しときます。
 
『 もう一つ、福地は現場ならではの興味深い話を報じた。戦死した敵兵から得た手帳があり、西洋製の立派なつくりだった。中に英文と和文で達者な書きこみがあった。持ち主は18歳10か月の少年、1年前東京で海軍入隊試験に通ったが、国元の異変を聞いて西郷軍に加わったことが分かった。福地は有為の少年の死を悲しみ、さらに敵の抜刀隊も食う物がない中で勇猛に戦ったことを称えた。現地を探訪すれば、もはや敵味方の区別は消え、両軍の戦死者をともに悼む気持ちになる。現場探訪は新聞に「実感」を持ちこんだ。』
 

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