地口行灯の元絵について、当初の想像では着彩された完成紙かと思ってた。
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☝ なのに、こんなふうに半紙に透けて見えるのを、上からなぞり描きで元絵を増やしてけるなんて思いもしなかったんだ。この方法だと、どれだけ達者な筆づかいでも、細部では微妙に違ってくるんじゃないだろか? とすれば、元絵とは “写し取った人の手許にある” と言う意味での元絵かな、とも思えるんだな。現に、あちこちのいくつかの地口行灯を見較べてみると、背景の赤と青の波模様は作者によって形や色合いが違ってる。また、人物の後ろに黄色の横線が入ってるものもあった。つまり、慎重に写し取る元絵もふくめて、当の作者の裁量が許されてる、ってことになるんだろう。江戸庶民の文化が、鷹揚であり、親しみのなかで育てられたんだなと思いいたるんだよ。
上に述べた地口行灯の元絵複製の手法を、仮の名で「透かし描き」としておいて、それとは対極にある厳密な複製の手法を紹介してみたい。
佐賀県伊万里の南に、大川内山という地域がある。急峻な山々の谷底みたいなところに磁器を焼く窯場がいくつかある。佐賀鍋島藩の御用窯だったところだ。そのなかの特別なある窯は藩による直属の運営で、ここでの焼き物は将軍家や大大名などへの寄進の品であって、きびしい規制が掛けられてた。この窯場には他の窯人が入ることを禁じられてたし、ここで出た不良品はすべて割って捨てることになっていた。
寄進する焼き物のほとんどは5枚組み、10枚組みのセット品であったから、すべてが同んなじ文様でなくちゃいけない。寸分たがわず同一文様が求められた。
で、その文様の複製は、和紙に墨書きの元絵があって、それをいくつもの素焼きに転写していったんだと。寄進先に失礼にならんような配慮、またセット物としての品質を保つための工夫だったんだ。その和紙プラス墨書きは、ナンという名称だったかもう忘れちまったけど「写し紙」みたいな名だったように記憶している。門外不出の技法だったらしいよ。
「透かし描き」と「写し紙」、必要に迫られての複製技法だけど、一方のおおらかさに対して一方はナンと厳しい存在だったろうか。我っちが庶民文化、言い換えれば下町文化を好きな理由がここにある。
さて、我っちがやってきた仕事のなかにも複製を必要なアイテムは山ほどあった。いや、いまでも複製をやることが多い。昔はデスクいっぱいにスリガラスを嵌めたライトテーブルも使ったが、いまは、ぶら下げて持ち歩けるライトビューワ―で、それこそ透かし描きをしてる。去年10月の【みごとコメント】プレゼントでは、ライトビューワ―は大活躍だった。
コピー機がある。PCでのコピー機能もある。パクリは隠れてやるもんだけど、こうした複製ならおおっぴらにドンドンやったらいいと思うんだよね♪