竹屋の渡し場で猪牙舟を降りると、吉原は近い。
でも、ナンだな、こうして猪牙舟で吉原通いのできる御仁てのは、懐たんまりの贅沢な遊びなんだけど、本来、遊郭ってのは町場にあって誰もがホイホイと気軽に出入りできたもんなんだ。そこで、そんな存在の吉原を再確認したいと思った。
最初から吉原って名じゃなかったけど、江戸一の大規模遊郭は人形町にあった。当時、人形町って名も無かったんだけど、一応、ひとの往き来は賑やかな町場だったそうだ。
でも葦の生えてるような場所柄で、葭原(よしはら)って呼ばれたんだって。それが縁起のいい「吉」って文字を使うようになったらしいね。そうしたなか、明暦の大火で焼き尽くされ、現在の千束あたりに移転しちゃった、ってこと。我っち、移転の理由に、江戸城の将軍ダレソレが、風紀の問題、町の再生、てな理由で移転を命令したって聞いた覚えがあるんだけど、ほんとはどうなんだろね。移転の後、吉原は「旧吉原」に、また移転先の千束側は「新吉原」ってふうに呼び分けされた。
左:遊郭のただ1か所の出入口は大門という。旧吉 右:大門はこの辺りにあったはず? 北西方向を見る
原の大門は北西側にあってそこから大門通りがまっ
つぐに延びて、神田川で途切れてる。画像の奥が南
東側で、旧吉原だ
左:旧吉原遊郭域の南東側の縁には末廣神社がある。 右:北東側の掘割は浜町川が担っていた。いまは埋
出入口の大門以外は、三方が掘割に囲まれて、遊女 立てられて細長い公園だ。手前の道を左に行くと明
や不届き客が抜けられないようになっていた 治座があるんで、勧進帳の銅像があるね
さて、大川を猪牙舟で登った海比古は竹屋の渡し場に着いた。いま、大川の岸は埋立てでコンクリート護岸になってて、板桟橋なんざ無い。各種の運動場や体育館が並んでいる。昔に夢を飛ばして見ると、ここ竹屋の渡し場は今戸橋ってのがあって、それをくぐると山谷堀という分岐の水路に入った。猪牙舟をそのまんま進めれば新吉原の大門間近まで行けるんだけど、山谷堀に添った土手通りを歩くのも、ま、オツといえばオツなんだね。そうは言いながらも、帰り途も猪牙舟を使う御仁だっていたようだけど‥‥。「牡丹載せ 今戸へ帰る 小舟かな」子規。
左:今戸橋は親柱が残されてる 右:山谷堀ゆかりの水門が、グランド奥にみえる
左:山谷堀公園の眺め 右:我っちが書くより、これが分かりやすいかも♪
パネルにも触れてある橋の数々、そのうち2つについてチョイと語ってみようか。
地方橋(ぢかたばし)=浅草観音さんの裏手には猿若町って町があって、中村座はじめ芝居小屋があって猿若三座なんて呼ばれて人気だった。芝居小屋に勤める伴奏方を地方と呼び、彼らの多くが住んでた辺りに近い橋だった。
紙洗橋(かみあらいばし)=この近くには浅草紙という再生紙を漉く紙漉き場があって、古紙を集めて煮立て、冷ましてから漉きの工程に入った。この冷ますを業界用語で冷やかすと言ってたそうだ。で、新吉原は歩いて6~7分の距離。冷却時間は1~2時間だったのかな、その間を遊郭の格子窓越しに、遊女に「声だけちょっかい」出して時間つぶしをしたそうな。冷やかしって言葉が広まったのはそれからのことだって。
(つづく)