そんなわけで、いよいよ今戸橋跡を離れ、山谷堀公園を歩いて新吉原に向かう。土手通りは今、整備された広い道になってるから、あえて、元の山谷堀を想いながら歩くことにしたんだよ。山谷堀跡の公園は改装中だった。じつはこれまで埋め立て後も橋の親柱だけは昔のまんまを残して、それなりの風情を楽しめてたけど、もうこれもなくなっちゃうんだね。変に新しい親柱ができるらしくて興ざめだい!
これが現在の紙洗橋の様子。舗装部分が左右に伸びてて
山谷堀を埋め立てた後の公園。右端に見えるのが新しく
作られる親柱。左の舗装道路は橋を渡って土手通りに向
かう道。その奥に広くなった現在の土手通りに出る
土手通りの紙洗橋交差点から北西方向をながめる。この先
信号3つ目に新吉原の大門がある
さ、冷やかしに行くぜィ(ムフフフ~)
この広くなってる土手通りで行くのは避けて、また山谷堀公園に戻って歩いた。信号3つぶんなんてすぐだね。「大門前」とか「日本堤橋」てな表示があって、そこから土手通りに出ると、次のような景色になる。その写真を撮ってる我っちの右後ろには有名な天ぷら屋があって、平日の日中はキッチリ店を閉めてるけど、土曜日曜、祭日には店を取り囲むほどの長蛇の列だ。いずれは我っちも入ってみたいとは思うけど、あの行列じゃ踏ん切り付かないよ。
土手通り越しに見る大門入り口。この道は
入るとすぐにゆるいSカーブになってて、
昔の城の防御の構造・廓(くるわ)を連想
する。この道もそうした狙いがあったのか。
GSの角には柳の木が1本だけ立ってて見返り柳って呼ばれてる。遊びを終えた翌朝、
この柳のたもとから大門のほうを振り返っ
て名残を惜しんだんだね。
この日は寒い2月の日、柳は芽さえ出てな
くて、存在感薄いね。
近くに町割りの案内図があった。ゆるいS
字カーブで大門に着くと(大門は今はない)
規則正しいタテヨコの道があって、その四
角な範囲が新吉原、いまは吉原と呼ばれち
ゃいるけど、行政上の地名は千束。
周りの町割りを見て欲しい。大半が斜めの
道筋で、吉原とは様子が違う。それは、新
吉原がここに出来たときは、一面、広い田
んぼだったんだ。新吉原が出来た後に周囲
も宅地になり、でも道筋は斜めだ。実は旧
吉原もそうだったけど、遊郭は東西南北の
町割りを避けて45度のズラシをやったんだね。それでどんな床の敷き方しても北枕を
避けられたってわけ。メデタシ♪だ
大門からまっつぐな中央の道は仲之町通り。〇〇太夫なぞという最上級の花魁が、禿(かむろ)や若い衆を引き連れて、客の待つ店までの行列をしたメインストリートだ。ここで我っちは古い古い歌を紹介したい。昔、高田浩吉という唄って演じる役者が居た。彼の唄う歌を、なぜか我っちは覚えてしまってるんだね。でも曲名も作詞家も誰かは知らない。ただ唄えるんだよ。幼かった我っちがどんな状況で覚えたのか、いまだにわかんないけど。
♫猪牙で急がせ 大川登れば スチャラカチャン スチャラカチャン
早も山谷堀 吉原土手だよ スチャラカチャン
可愛いあの娘が お待ちかね
ハアどうするどうする スチャラカチャン
♫くぐる大門 京町すみ町 スチャラカチャン スチャラカチャン
松の位の 外八文字よ スチャラカチャン
‥‥覚えはここまで‥
仲之町道りに面した両脇は、客を上級の遊女に紹介するお茶屋が並んでたはず。いまは普通の商店街を思わせるが、チョコチョコと個室付き特殊浴場=ソープランド(つまりトルコ風呂ネ)がある。そして仲之町通りから左右に延びる道を何本か見て回ると、チョコチョコどころか特殊浴場がたっくさん! それぞれの入り口にゃ黒服の兄さんが立ってるから、なんか遠慮が立って撮影は控えたよ。
(つづく)