会社を譲った後しばらくして、たっくさんの個人用資料を処分した。我っち自身の存在の一部を切り捨てるような気分にも襲われたけど、結構、がんばって処分をしたつもりだ。ところが、だ。開けてない段ボールがいくつかはあって、数日前にその一つをたまたま開けてみた。懐かしいやら嬉しいやらの取っときのモノが出てきたよ♪
あの、憧れのアメリカズカップに日本チームが初めて挑戦したのが、1992年。チーム名を、誇らしくも「ニッポンチャレンジ」なんてつけちゃって、日本中のヨットファンをワクワクドキドキさせてくれた。
「アメリカズカップ」てなヨットレースがどんなもんかは、説明長くなるんでここでは端折るけども、日本チームはホームポートを三河湾の蒲郡に据えて、組織や技量のクライミングを続けた。
アメリカズカップの本番決勝戦は、カップ防衛側と挑戦側のサシでおこなうマッチレース。そのために挑戦側での予選レースが設定されてて、カップを狙う数チームが、これもマッチレースで、挑戦する1チームを選び出す。1992年の挑戦チームは8チームだった。カップへの挑戦権を手にするのは並大抵のことじゃない。
ニッポンチャレンジは、1992年、1995年、2000年と3回挑戦し、いずれも予選レースで負けちまった。初挑戦のスキッパー(=艇長)はクリス・ディクソン(ニュージーランド)。1995年、2度目の挑戦では、日本人の難波 誠さんがスキッパーをつとめた。明るく豪快な人柄は、日本のヨットファンを魅了して、挑戦権を取ってくれ~という応援が盛り上がった。ま、予選のゲートは狭く厳しかったけどね。
難波さんは1997年、SAIL OSAKA ’97 という外洋レース中に落水。救命胴衣を着けてなかったのでそのまんま行方不明になった。あらためてご冥福を祈る。